今日は先週に引き続き、自分にとっては約20年ぶりにレヴィナスの主著『全体性と無限』(Totalité et infini)および『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』(Autrement qu'être ou Au-delà de l'essence)を紐解いてみたい。レヴィナスの思想は割と難解なため解釈は散文調にならざるを得ない。以下に彼の思想を自分なりにとりとめもなく書いてみる。

 

『全体性と無限』では、まさに主体と他者の関係、特に「自己と他者の理解不可能性」について論じている。自己と他者の直接的なインターフェイスは「身体」となるが、レヴィナスはその中でも特に「顔」に着目する。ここで言う「顔」とは物理的な顔そのものではなく、表面的な顔から隠された「表情」や「思い」のことを指している。そして、レヴィナスは他者の表情そのものや言外の思いを完全に理解することは不可能であるため、自己にとって他者は永遠に理解不能な存在、すなわち「他者」であり続けると結論する。レヴィナスは「全体性」という言葉を、所謂オーソドックスな西洋哲学における主体概念、特にヘーゲル哲学に代表される、精神が世界を体系化していくという「絶対精神の弁証法による運動」と捉えている。レヴィナスはその時代における個人的背景もあり、そのような主体概念や世界観を半ば忌避していた。そして、レヴィナスは雁字搦めの全体性・全体主義を避けるには、全体に取り込まれない同一性、不確定な自己同一性が必要であると論じる。謂わば、掴み処のないヒステレシス的無限ループのような自己存在の在り方だ。このレヴィナスの「無限」には、デリダの『差延différance』を彷彿とさせる共通性がある。そして、理解不能な他者を受け入れ、他者を超えた無限を追求する営みの重要性を説いた。

 

レヴィナスは『存在の彼方へ』で、次のようにさらに踏み込んだ考察をする。人は「他者への責任を引き受ける」ことによって、はじめて本当の自由を得る。自分が他者の身代わりになるということは、自分の決心や約束とは関係なく、自分の存在を超えて、既に「召喚」されているということである。そして、他者への責任を担うこと、それが「善」につながる。しかも、この善は自らが決めることではなく、自ら選び取る時間も我々には与えられていない。既に自分の存在、主体性を超えて決められたものである。一種の運命や使命のようなものだ。『善は存在に先立つ』。これはサルトルの『実存は本質に先立つ』を超越した言葉のように見える。日常生活のコミュニケーションにおける「意味」についても、それは発話者の言語体系に基づいているわけではない。これも本質的には「他者」に由来する。ラカンの言葉でいえば『大文字の他者』だ。主体性とは、他者の身代わりになる「可傷性」、他者に対する「責任」をもってはじめて成立する。「善」や「正義」とは他者に近づくこと、他者に寄り添うことによってしか成し得ない。つまり、他者の責任を引き受けることで、自分がその場に存在しなくても、他者に何らかの影響を与えることができるのだ。

 

レヴィナスの言葉はあまりにも深い。仕事だけでなく人生にも通ずるものがある。

さて、そろそろ国際学会への出発準備をしなくては。

野田賀大