2019年02月

【レヴィナスのエチカ】

今日は先週に引き続き、自分にとっては約20年ぶりにレヴィナスの主著『全体性と無限』(Totalité et infini)および『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』(Autrement qu'être ou Au-delà de l'essence)を紐解いてみたい。レヴィナスの思想は割と難解なため解釈は散文調にならざるを得ない。以下に彼の思想を自分なりにとりとめもなく書いてみる。

 

『全体性と無限』では、まさに主体と他者の関係、特に「自己と他者の理解不可能性」について論じている。自己と他者の直接的なインターフェイスは「身体」となるが、レヴィナスはその中でも特に「顔」に着目する。ここで言う「顔」とは物理的な顔そのものではなく、表面的な顔から隠された「表情」や「思い」のことを指している。そして、レヴィナスは他者の表情そのものや言外の思いを完全に理解することは不可能であるため、自己にとって他者は永遠に理解不能な存在、すなわち「他者」であり続けると結論する。レヴィナスは「全体性」という言葉を、所謂オーソドックスな西洋哲学における主体概念、特にヘーゲル哲学に代表される、精神が世界を体系化していくという「絶対精神の弁証法による運動」と捉えている。レヴィナスはその時代における個人的背景もあり、そのような主体概念や世界観を半ば忌避していた。そして、レヴィナスは雁字搦めの全体性・全体主義を避けるには、全体に取り込まれない同一性、不確定な自己同一性が必要であると論じる。謂わば、掴み処のないヒステレシス的無限ループのような自己存在の在り方だ。このレヴィナスの「無限」には、デリダの『差延différance』を彷彿とさせる共通性がある。そして、理解不能な他者を受け入れ、他者を超えた無限を追求する営みの重要性を説いた。

 

レヴィナスは『存在の彼方へ』で、次のようにさらに踏み込んだ考察をする。人は「他者への責任を引き受ける」ことによって、はじめて本当の自由を得る。自分が他者の身代わりになるということは、自分の決心や約束とは関係なく、自分の存在を超えて、既に「召喚」されているということである。そして、他者への責任を担うこと、それが「善」につながる。しかも、この善は自らが決めることではなく、自ら選び取る時間も我々には与えられていない。既に自分の存在、主体性を超えて決められたものである。一種の運命や使命のようなものだ。『善は存在に先立つ』。これはサルトルの『実存は本質に先立つ』を超越した言葉のように見える。日常生活のコミュニケーションにおける「意味」についても、それは発話者の言語体系に基づいているわけではない。これも本質的には「他者」に由来する。ラカンの言葉でいえば『大文字の他者』だ。主体性とは、他者の身代わりになる「可傷性」、他者に対する「責任」をもってはじめて成立する。「善」や「正義」とは他者に近づくこと、他者に寄り添うことによってしか成し得ない。つまり、他者の責任を引き受けることで、自分がその場に存在しなくても、他者に何らかの影響を与えることができるのだ。

 

レヴィナスの言葉はあまりにも深い。仕事だけでなく人生にも通ずるものがある。

さて、そろそろ国際学会への出発準備をしなくては。

野田賀大

【Descartes' Errorの超克】

先日『脳内表象』の話を少ししたので、今回はその延長というかそれに関連することを書いてみたい。認識論の中で割と有名な思考実験にパトナムの『水槽の脳』がある。これは「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか」という懐疑主義的な思考実験的仮説である。因みに、これは、映画『マトリックス』の背景にあるキーコンセプトの1つでもある。

 

実はこのような考え方は哲学の世界ではかなり昔から提唱されており、「シミュレーション仮説」と呼ばれる。例えば、デカルトが『方法序説』の中で説いた「Je pense, donc je suis: Cogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)」も一種の独我論的認識論であり、この言説においては外部世界の存在を必ずしも措定していないように見える。また、カントの『純粋理性批判』では、カントは人間の悟性そのものの認識論的限界を主張しており、外部世界<物自体>は人間には認識不能という立場を取っていた。しかし、カント哲学では外部世界の存在をイデア論的に措定している。ここまで紹介すると流れ的にショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』に触れたくなるが、ショーペンハウアーは「世界は私の『表象』であり、『根拠の原理』により連関する『表象』の集まりである」と言い切っているように、「世界=私の認識」と考えていた。

 

他方、従来の伝統的西洋哲学は、意識・精神・認識・言語等に重きを置いてきたという歴史もあり、特にデカルトの『心身二元論』などはその典型であった。複雑な現象を敢えて単純化して考察するという意味では一定の有効性があったが、必ずしも実態を反映した考え方ではなく、むしろ後世に一種の誤解や弊害を残した側面もある。また、中世以降、スピノザの『心身平行論』やライプニッツの『予定調和説』に代表される心身一元論的な学説もあったが、近代以降、より本格的に心身二元論の限界を超克しようと試みた哲学者にベルクソンやメルロ=ポンティなどがいた。特にメルロ=ポンティは「両義性(Ambiguïté])」「身体性」「知覚の優位性」といった哲学を提唱し、『心身の合一マールブランシュとビランとベルクソンにおける』で、知覚の主体である「身体」を重視し、「身体」に主体と客体の「両義性」を与え、「身体」から生み出された「知覚」を手がかりに身体自体と世界を考察した。

 

先日私が述べた「脳の神経基盤から発現する精神機能を物理的表象主義の立場から解明する」という考え方も、謂わば、脳という特殊な臓器の<身体性>を重視し、そこを起点としている(つまり、私自身、古典的な心身二元論の立場は取っていない)。恐らく、世間では、「身体(body)と脳(brain)」、「脳(brain)と心(mind)」を二項対立的に捉える習慣があるため、Descartes' Errorからなかなか逃れられないのかもしれない。このようなことを何となく思索していたところ、同僚の宮崎先生と増田先生からレヴィナスの話をされた。今度暇なときに(実際あまり暇ではないが)、レヴィナスの「主体と他者の関係」などについて考えてみたいと思う。


野田賀大


【脳内表象についての小考】

最近、久し振りに精神機能や心的活動そのものについて、たまたま脳科学的な観点から思いを巡らす機会があったので、完全に個人的見解ではあるが備忘録的に書いてみたいと思う。脳は<事物>を神経細胞の発火パターンで表象しているという神経科学的さらには「物理的表象主義」の立場で考えると(神経科学者、精神科医、哲学者の中には様々な立場・見解を持っている方がいらっしゃるとは思いますが)、日常生活におけるありふれた心的現象から精神科領域における様々な精神症状も究極的には各人の脳内表象であるということができるのではないかと自分は考えている(少なくとも現象学的にはそうだと言わざるを得ないと思う)。

 

しかし、先日ある会合でたまたまこのような話を少ししたところ、ある先生から「精神科における妄想などの思考障害をはじめとした精神症状は、脳内表象というレベルでは説明することができないのではないか?」という鋭いご指摘を受けた。その後、そのことが頭の中からずっと離れず、やや気になっていたので、今一度ここで簡単に整理してみたい。

 

まず、「表象」(representation; Vorstellung)について、ブリタニカ国際大百科事典の解説を参考にすると以下のような説明になる。

(1) 外界に刺激が存在せずに引起された事物・事象に対応する心的活動ないし意識内容のこと。さらに、以前の経験を想起することにより生じる記憶表象や想像の働きにより生じる想像表象などがある。刺激が現前せずに生じる意識内容という点で夢や幻覚なども表象の一つとされる。また、場合により具体物に対する関係の程度に応じて心像・観念とほぼ同義に用いられる。ただし、刺激が現前した場合に生じる知覚像も表象に含めて知覚表象と呼ぶこともある。(2) 現在では、特に思考作用にみられるように、種々の記号・象徴を用いて経験を再現し、代表させる心的機能を指す。この場合は代表機能の語が用いられることが多い。」

 

したがって、「表象」の定義にもよるが、自分は脳内表象という言葉を、あくまでも広義の「表象」という意味で用いているので、定義的にはそれほど的外れなことを言っているわけではないようである。また、「表象」というのは、一般的には、感覚質を指す「クオリア」よりも対象範囲が広く、様々なクオリアにより構成された複合的クオリア、さらにはそれらにより現前する高次機能をも含む。

 

一方、人間<主体>にとって「不可能なもの」(=現前しないもの・経験不可能なもの)、ラカンの言葉でいえば<現実界>、すなわち「シニフィエなきシニフィアン」・「対象a」・「ファルス」といった「世界の外部」に精神症状の起源を求めている立場からすると(このような立場は物理的表象主義には真っ向から相反することになるのだが)、思考障害などは<主体>による表象機能だけでは説明不能な現象ということになるだろう。しかし、自分の立場からすると、人間<主体>には「語りえないもの」、すなわち「言語化できないもの」で精神機能を解き明かそうとする立場というのは、そもそも自己矛盾的トートロジーのような気がして、この命題に対する問題解決には決して繋がらないのではないかと考えている。

 

さて、皆様はどうお考えでしょうか?

 

野田賀大



抄読会 OFC2回目増田

抄読会のことを書こうと思ってブログを開けたら
野田先生が書いてくださっていたので
一気にブログの格調が高くなりました。 

この流れで先週の抄読会の記録をしたいと思います。

テーマはOrbitofrontal cortex (OFC) 2回目。 
OFC:眼窩前頭皮質は、
意思決定に重要な役割を果たしていると言われています。

今回、私が選んだ論文は
Attachment models affect brain responses in areas
related to emotions and empathy in nulliparous women.

Lenzi D, Trentini C, Pantano P, Macaluso E, Lenzi GL, Ammaniti M. Attachment
models affect brain responses in areas related to emotions and empathy in
nulliparous women. Hum Brain Mapp. 2013 Jun;34(6):1399-414. doi:
10.1002/hbm.21520. Epub 2012 Feb 22. PubMed PMID: 22359374.
という、愛着タイプとOFCの関わりについて見た論文です。

ざっくりいって
「愛着タイプの差によって、
感情刺激に対する脳活動に差があるか」
を見たようなものです。

大人の愛着のタイプは3種類、
安定型 (secure or autonomous) 約半分
求めに応じて助けを得られた環境
困った時には適切に助けを求める
回避型・愛着軽視型 (dismissing or detached)1/4
情緒的やりとりがほとんどない環境
助けを求めない
とらわれ型・不安型 (preoccupied or enmeshed) 1/4
不安定な環境、顔色を伺う
見捨てられ不安

に分かれると言われているようです。

このうち、安定型11名と回避型12名の人々に
子供の悲しそう・嬉しそうな写真を見せて
表情認知の際の脳活動をfMRIで撮像しています。

結果として、
回避型のタイプの人の方が、安定型の人に対して
感情刺激を提示された際、
辺縁系やミラーニューロン系の活動は上がっていたけれど
mOFCの活動は下がっていました。

回避型の人は感情の気づきに関連するmOFCが抑圧されているというこの論文。
愛着形成は脳の携帯や機能に影響すると言われて久しいですが、
生きる上で不可欠な「感情」にも大きな影響を及ぼすのですね。

F.M 

【臨床研究雑感】

自分はこれまでブログを書いたことが殆どないのですが、増田先生がラボブログを開設し、若手の先生方が折を見てブログを書いてくれているので、自分もたまにはとりとめのないことを思いつきで書いてみたいと思います。

自分は経頭蓋磁気刺激法(transcranial magnetic stimulation: TMS)や脳波などを専門に臨床研究を行っております。この分野の仕事を初めて彼是もう10年が経ちます。もっと若い頃は何気に基礎の研究室で遺伝子改変モデルマウスを使った電気生理研究などもやっていました。

臨床研究が医学や医療技術の発展のために重要であることは、言わずもがななので敢えて書きませんが、これまで様々な臨床研究に携わってきて、ラボを運営し、研究をマネージする立場になってくると、改めて「研究を成り立たせるために重要なものは何だろうか?」とふと考えることがあります。

良く言われるのは、1)研究室が扱っているテーマに独自性や独創性があり、2)研究開発技術力があり、3)潤沢な資金があり、4)ボスがまともな人で指導体制がしっかりしている、5)ラボメンバーが皆活躍していること、などだと思います。勿論、すべて重要な条件ではありますが、要約すると「ヒト・カネ・モノ」の質・量とそれらのバランスということになるかと思います。

ただ、そもそもラボが独立した組織として存立するためには、その前提として研究を遂行する為の資金と道具が必要になってくるので、「カネとモノ」というのはラボを立ち上げる際の必要最低限の条件になってくるかと思います。そう考えると、やはりラボを立ち上げた後に最も重要になってくるのは「ヒト」だということになるかと思います。つまり、PIを含めたラボメンバーの資質と組織力が肝要だということです。特にここ数年はそのように痛感しております。

幸い今主催しているMTRラボのメンバーは皆、能力・性格ともに素晴らしい人達で、自分の方が日々色々と助けてもらっております。特に現在実施している臨床研究は非常に大規模で複雑高度な内容なので、それぞれのラボメンバーの高いモチベーションと責任感なくしては決して成し得ません。例えて言うなら、うちのラボメンバーには、まさにF1チームのような組織力があります。

したがって、自分の役割は、カネとモノだけでなく、将来ある若者が活躍できるような土壌を形成・維持し、それぞれの可能性を高めていくことだと考えております。

野田賀大
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