先日『脳内表象』の話を少ししたので、今回はその延長というかそれに関連することを書いてみたい。認識論の中で割と有名な思考実験にパトナムの『水槽の脳』がある。これは「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか」という懐疑主義的な思考実験的仮説である。因みに、これは、映画『マトリックス』の背景にあるキーコンセプトの1つでもある。

 

実はこのような考え方は哲学の世界ではかなり昔から提唱されており、「シミュレーション仮説」と呼ばれる。例えば、デカルトが『方法序説』の中で説いた「Je pense, donc je suis: Cogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)」も一種の独我論的認識論であり、この言説においては外部世界の存在を必ずしも措定していないように見える。また、カントの『純粋理性批判』では、カントは人間の悟性そのものの認識論的限界を主張しており、外部世界<物自体>は人間には認識不能という立場を取っていた。しかし、カント哲学では外部世界の存在をイデア論的に措定している。ここまで紹介すると流れ的にショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』に触れたくなるが、ショーペンハウアーは「世界は私の『表象』であり、『根拠の原理』により連関する『表象』の集まりである」と言い切っているように、「世界=私の認識」と考えていた。

 

他方、従来の伝統的西洋哲学は、意識・精神・認識・言語等に重きを置いてきたという歴史もあり、特にデカルトの『心身二元論』などはその典型であった。複雑な現象を敢えて単純化して考察するという意味では一定の有効性があったが、必ずしも実態を反映した考え方ではなく、むしろ後世に一種の誤解や弊害を残した側面もある。また、中世以降、スピノザの『心身平行論』やライプニッツの『予定調和説』に代表される心身一元論的な学説もあったが、近代以降、より本格的に心身二元論の限界を超克しようと試みた哲学者にベルクソンやメルロ=ポンティなどがいた。特にメルロ=ポンティは「両義性(Ambiguïté])」「身体性」「知覚の優位性」といった哲学を提唱し、『心身の合一マールブランシュとビランとベルクソンにおける』で、知覚の主体である「身体」を重視し、「身体」に主体と客体の「両義性」を与え、「身体」から生み出された「知覚」を手がかりに身体自体と世界を考察した。

 

先日私が述べた「脳の神経基盤から発現する精神機能を物理的表象主義の立場から解明する」という考え方も、謂わば、脳という特殊な臓器の<身体性>を重視し、そこを起点としている(つまり、私自身、古典的な心身二元論の立場は取っていない)。恐らく、世間では、「身体(body)と脳(brain)」、「脳(brain)と心(mind)」を二項対立的に捉える習慣があるため、Descartes' Errorからなかなか逃れられないのかもしれない。このようなことを何となく思索していたところ、同僚の宮崎先生と増田先生からレヴィナスの話をされた。今度暇なときに(実際あまり暇ではないが)、レヴィナスの「主体と他者の関係」などについて考えてみたいと思う。


野田賀大